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独裁者「ヒトラー」に立ち向かった男:山高帽にステッキの放浪者 (RTE-News, Feb 9, 2022)

 戦後、どの街にも浮浪者が溢れていた。当時、「宿なし、職なし」の浮浪者を「ルンペン」と言った。

 

 さて、話はサイレント・トーキー映画時代にさかのぼる。イギリスで映画の天才が現われた。あの悪名高い Adolf Hittler (1889- 1945)の誕生よりも 4日早く Londonで生まれた「Charlie Caplin (1889-1977)」だ。

 

 映画では、山高帽 (bowler hat)にステッキを持ってちょび髭をはやし、ブカブカのズボンをはいてチョコチョコ歩く。この男の名は「little tramp (小男の浮浪者)」、俗な言い方では「チビのルンペン」となる。

 

 その主人公は映画の中で一言もしゃべらない。けれども、観る人に、これほど感動と笑いと勇気を与える映画はなかった。

 映画を愛してやまない Mr Paul Markeyが、「Kevin Brownlow (ケヴィン・ブラウンロー)」制作のドキュメンタリー「Unknown Chaplin (知られざるチャップリン)」を観て、深く感銘を受けたのは、Chaplinの映画撮影に対する独自の姿勢だった。

 

 当時、セルロイドフィルムは高価だった。それにもかかわらず、フィルムを惜しむことなく、ひたすらカメラを回し続けたのだ。Chaplinは撮影中に「カット」と叫ぶことがなかったという。そのため、実際には使用されない膨大な「acrhival footage (ストック・フッテージ)」が生じた。

 しかし、Chaplinにとっては、インスピレーションを得るために必要なことであり、資金はいくらでもあったので、金に糸目をつけなかったのだ。

 

  さらに、撮影を始めると、止まらなかった。「終了 (stop)」の声が掛かるのは、Chaplinが思いどおりのシーンを見つけたときだった。ときには数ヶ月を要したが、もちろん、その間、撮影に関わるスタッフ・クルーの全員に手当を払い続けた。

 Chaplinが、USの「Mutual Film」と正式に契約を交わしたのは1915年。このときの監督としての年間報酬は $670,000。現在の価格に換算すると、およそ $20million (約23億円)となる。当時としては、とてつもない力があった。

 

 ところが、その名声にも、やがて影がさすようになる。

 1925年、Chaplinが、最新作「Limelight (ライムライト)」の London初上映に向けて、「The Queen Elizabeth (クイーン・エリザベス号)」に乗船中、突然、アメリカから「residency permit (再入国許可)」を取り消される。映画制作の活動拠点に帰れなくなってしまったのだ。

 

 その背景には、戦後のアメリカで始まった「赤狩り (Red Scare)」に巻き込まれて共産主義者と疑われたこと、さらに、プライベートな裁判沙汰や世間の悪評 (bad publicity)、組織的な中傷( smear campaigns)が渦巻いていた。 

 とくに FBI初代長官「J. Edgar Hoover (フーバー)」は、Chaplinが大嫌いだった。

 

 しかし、このとき、Chaplinの妻「Oona O’Neill (ウーナ・オニール [1925-1991])が手腕を発揮し、Chaprinの もめごとを全て片付けて、2人は Swissに移住する。

 なお、1940年に公開された「The Great Dictator (独裁者)」は、もちろん、当時、キチガイとしか思えない詭弁(きべん)を弄(ろう)してドイツ国民を戦争と殺戮に駆り立てたヒットラーに対する痛烈な批判であった。

 

おわりに:悪魔のようなヒットラーが死んで 77年。その後、独裁者はこの世から消えたのか。非理屈をつけ、嘘を言い、人を騙しては、平和に生活している民衆を虐殺、大量殺戮する所業が世界中で相次ぐ。とても、見識ある指導者のやることとは思えない。

 今、独裁主義 (dictatorship)は「トップ・ダウン」方式という言葉の迷彩服でカモフラージュされ、多くの企業や大学・教育機関に入り込んでいる。極めて危険なことだ。

                            (写真は添付のRTE Newsから引用)

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